平田内蔵吉研究の第一人者、久米健寿先生

〈プロフィール〉

昭和11年1月31日、神戸市兵庫区東出町出身。
岡山県美作に疎開、学童期を過ごし、戦後、大阪へ。
大阪府立・清水谷高校を経て関西大学文学部新聞学科卒(卒論は「マスコミと社会風刺」)。
大浦孝秋氏に師事してその主宰する人間医学社に入社。
「月刊・人間医学」誌編集を担当。
傍ら明治鍼灸柔整専門学校(現・明治東洋医学院専門学校)を卒業、鍼灸師免許取得。
松下電工株式会社に入社、「ナショナル健康タイムス」「月刊健康」等を編集。
一時、鍼灸院開業を経て、昭和49年より母校、明治東洋医学院専門学校に奉職。その後退職。

久米先生近影 自宅にて

久米建寿先生に聞く「平田式心療法」

平田内蔵吉の生涯と思想・詩をまとめた『東洋医学の革命児』の著者、久米健寿先生は現在87歳。
容貌は年齢相応ではありますが、元気溌剌で頭もはっきりしており、声も大きいです。
長年の岡田寅二郎の静座法、肥田春充の強健術の実践により健康を保っております。
久米先生は兵庫県宝塚市に住み、ご自宅は山の高台にありかなり急な坂のうえにありますが、
それをものともせずに毎日下の町まで買い物に行き自炊をされております。

平田内蔵吉について

平田内蔵吉は1901年(明治34年)4月26日、兵庫県赤穂町加里屋において、薬種商・平田寛治、しづの長男として生まれる。
1914年(大正3年)9月、兵庫県竜野中学校に入学する。
この頃、白隠禅師の仮名法語を読み感動、修行の意を覚り、また発心する。
また川合式強健術や岡田式静座法を実践する。
1919年(大正8年)竜野中学校卒業。鹿児島第七高等学校理科乙類に入学する。檜山鉄心に心身修養法や触手療法を学ぶ。
1922年(大正11年)七高卒業、京都帝国大学・医学部入学。
1年後、文学部哲学科に転籍。
1923年(大正12年)久留静と結婚。
1924年(大正13年)長男生まれる。

肥田春充翁(左)と平田内蔵吉(右)

「平田氏十二反応帯」は今や鍼灸学校の教科書に載るほど周知のことですが、
その特色は体表を十二の断区に分け内臓と関連づけることにあります。
また、同じものが上肢、下肢、頸部、顔面にもあることです。
この断区はどのようにしてできたかははっきりとしませんが、平田氏の直観によるところが大きいようです。

目の触手療法を施す平田内蔵吉

動画紹介

平田式心療法の紹介1
平田式心療法の紹介2
平田式心療法の紹介3

[平田内蔵吉の著書・関連書籍]

平田内蔵吉氏は多くの著作があります。そのなかでいくつかをご紹介します。

「辯證法教典」

「弁証法教典」は今や飛躍的中心健康術の教科書としてうまれた。
中心日本、革新の日本の生命の中心はこの一書で得られるであろう。
中心健康術の詳設、内科、外科、婦人科に亘る全疾病の治療法五千種に及ぶ。
更に中心生活法を詳設してある、と著者は説明している。

「闘運読本」

「闘運読本」は平田了山の雅号で著した唯一の著書であるが、
これは前年に出した「闘運術」につづくもので、
前書に欠けていた正名と言葉の弁証つまり姓名学と、易の弁証を詳述したものである。
本書に附した易盤によって、最も合理的に、正確にしかも子供にもできるような
簡単な方法で易断して、自己に関したことを断ずることができる。
理論的に、また体験的にその真理が確信できる、と述べている。

〈そのほかの関連書籍〉

『東洋医学の革命児』

『真の哲学』

『心療醫典』

『看護の友』

『正坐法』

『安臥法』

『坐の研究』

『平田式心療法 -熱鍼快療術-』